Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『博士と狂人』『トルーマン・カポーティ 真実のテープ』『星の子』『ジオラマボーイ・パノラマガール』『おらおらでひとりいぐも』『泣く子はいねぇが』『燃ゆる女の肖像』『ヘルムート・ニュートンと12人の女たち』『私をくいとめて』

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11月1日
毎月一日は「映画の日」というわけで、ヒューマントラスト渋谷にて『博士と狂人』をば。
いやあ、やっぱりショーン・ペンは素晴らしいな、壊れていく人の魂についての表現というか、それでも残る知性みたいなものを体現していた。映画の内容は辞書を作る話だけど、メル・ギブソン演じる博士とのやりとりとかにおける友情や知的な会話など好奇心が揺さぶられるものだった。こういう地味ながら良質な作品を観れるのはうれしい。

 

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11月6日
ル・シネマで『トルーマン・カポーティ 真実のテープ』を鑑賞。カポーティ作品を読み込めてないけど、人間としての魅力もだけど、成功して緩慢な自殺のようにアルコールにドラッグ、社交界の裏を暴露して大事な人も失っていった彼の人生を残されたテープと友人知人や養女となった女性のインタビューで構成されている。コンパクトながらうまくまとまっている。この映画の中でも絶筆となった遺作『叶えられた祈り』の残りはあるのかどうかというのは周りの人間でも意見がわかれていた。

 

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11月8日
大森立嗣監督『星の子』をヒューマントラスト渋谷で鑑賞。
新興宗教にハマっている親、思春期の主人公の娘、家から出ていった姉、ほどよい距離感で接してくれる友人。身内や親族、切りたくても切れない距離になにかを崇拝して揺らがない信仰や信頼をしている人がいて、自分がその価値観を信じれない、あるいは信じていたが揺らぐ時、その心情を描いてる。
なにかを信じている者の強さと脆さ、なにも信じていない者の自由さと儚さ、それぞれの価値観のグラデーションが人にはある。
信じてる方が楽だし、立っていられる。その数が少ないとぶっ壊れたり折れたりしたら生きていけなくなってしまうので、多種多様にいろんなものを信じればいい、どうせ矛盾を孕むし、矛盾せずに生きてはいけないとは思う。猜疑心や不満や矛盾を許せるかどうか、最後のシーンは矛盾してるけど、許したりわかったんだろうな、と思った。

 

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11月12日
シネクイントホワイトで岡崎京子原作映画『ジオラマボーイ・パノラマガール』をば。
新生PARCOになる前の工事中のPARCOや、月島にある選手村になる予定のマンション群なんかが出てきて、その時にしか撮れないものが物語の背景にあってよかった。毎年晴海埠頭に行くので物語の場所はなんとなくわかる。正月の選手村はゴーストタウンだったけど。
主人公の渋谷ハルコ演じる山田杏奈が角度によっては小芝風花やメルマ旬報でも連載している小川紗良さんにも見えた。小川さんは新垣結衣に似てんなあと思っていたので、彼女たちはガッキーの系統にあるキレイとかわいい両方感じさせる整った顔なんだろうな。顔の系統近いと声質も近いだろうし、骨格はスピーカーみたいな型だろう。好きな顔があれば、好きな声質もたいてい決まるんじゃないかな。似てる顔が好きになりやすいのは声も似てるからなんじゃないかなという仮説。

 

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11月17日
TOHOシネマズ六本木ヒルズで沖田監督『おらおらでひとりいぐも』を鑑賞。ひとりの人生に連なる歴史、見えなくても共に生きる過去の思い出たち。ある種のマジックリアリズムだと思うけど、僕らが生きている日常でもある。沖田監督作品って日常みたいな中に普通に不思議なものをぶちこんでくる、それがマジックリアリズム的なものなんだけど、今作ではマンモスだったり、悲しみの三人という主人公の脳内にいるであろう存在たちとか。あと『スパイの妻』と蒼井&東出が同じく出演してるので違う世界線にも見える。

 

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11月20日
新宿ピカデリーで『泣く子はいねぇが』を鑑賞。
父親になったばかりの主人公のたすく(仲野太賀)がナマハゲをしている際に飲みすぎてしまい、お面以外は何もつけていない全裸で町内を歩き、それがテレビで放送されてしまう。そして、彼は地元を逃げ出して東京へ。
2年後、東京にやってきた友人から元妻のことね(吉岡里帆)の父が亡くなり、彼女が風俗で働いていると聞かされたことで、地元に帰ってなんとかやりなそうとするのだが。失敗や炎上をすると一瞬で終わりになる今の世界を考えさせられる作品でもある。ことね(吉岡里帆)のたすくへの表情が何度も突き刺さる。なんか今まで観た中で吉岡里帆さんいちばんいいなって個人的には思った。ことねはことねで新しい生活を手に入れようとしていた。それでも諦めきれないたすく、最後は思った通りの終わり方ではあるのだが、よい終わり方だった。
たすくはなにかに怯えている感じもするけど、友達と密猟して稼いだりとかしているけど、なんかオフビートとは違うんだろうけど、物語のリズムが好きな感じだった。山中崇さんは兄役だったけど、ふたりが並んでいる感じもよかった。
佐藤快磨監督は是枝裕和監督が惚れ込んだ才能という文言が映画のサイトにも踊る期待の若手のようだた。是枝監督や西川美和監督たちを中心にした「分福」という会社はこうやって若手をフックアップもして行っているのは素晴らしい。前に観た『夜明け』という作品の広瀬奈々子監督も助手を務めてデビューしている。

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12月4日
『燃ゆる女の肖像』をル・シネマで鑑賞。ギリシア神話の「オルフェウス」と「エウリュディケ」の話が軸にあった。黄泉の国に妻の「エウリュディケ」を連れ戻しにいった夫の「オルフェウス」はハデスに地上に出るまで振り向いてはならないと言われてしまったものの、彼は妻の方を振り向いてしまったことで彼女が黄泉の国に吸い込まれるように消えてしまった、という話が主人公のふたりの女性にあり、終盤にはこの「振り向く」という行為が大きな意志を感じさせるものとして描かれていた。ただ、途中でウトウトしてしまったのでうまく感情移入ができなかった。

 

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12月13日
ヘルムート・ニュートンと12人の女たち』をル・シネマにて鑑賞。
ニュートンの被写体になった自分との彼との思い出について、モデルになった女性たちが語っていくインタビューがすごくいい。美しく気高い写真たちについて、知性とユーモアで写真の力やフェミニズムや差別について自分の言葉で話をしていて、とても魅力的だった。彼の妻でありフォトグラファーであるジェーンが撮った夫もすごくいい。まったくこのヘルムート・ニュートンについて知らなかったけど、こんなにカッコいい写真を撮っていた人がいたのか、写真集とか買ってみようかな。

 

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12月24日
大九明子監督×綿矢りさ原作×能年玲奈主演『私をくいとめて』をヒューマントラスト渋谷で。
本名なのに使えずに、「のん」って名乗るしかないのってすごいよね。『千と千尋の神隠し』みたいに名前を奪われている状況がずっと続いている。芸能界というのが博士さん曰く、あの世みたいなものだったら、本名さえも奪われるのかもしれないよなとは思わなくもないし、それがトンネルの向こう側であっても、おかしいことだけどね、と思うので「のん」ではなく、能年玲奈とあえて書いておく。
能年演じる主人公のみつ子はおひとりさまが上手になっている女性であり、時折家にやってきて料理をお裾分けしてもらう年下の多田くん(林遣都)に恋心を抱いているが、長年のひとりに慣れている彼女は中々前に進むことができない。
おひとりさまの先輩でもあり、仲の良いノゾミさん(臼田あさ美)やバリバリ仕事ができる澤田(片桐はいり)などとの交流や関係性もあり、仕事先は心地よいものとなっている。だが、昔はセクハラ男性上司がいたことものちにわかる。そんなみつ子は部屋や土日にひとりで出かけると誰かと話をしている、その相手が脳内の「A」(声は中村倫也)という存在で、所謂自問自答のような形になっている。そのやりとりが物語を進めていくが、大学の友達の皐月(橋本愛)が結婚して住んでいるイタリアに行った際などには消えたりしていた。
みつ子がノゾミにもらった件で温泉に行った際に行われていたお笑いのイベントには「THE W」で優勝した吉住が出ており、彼女に絡んでくる男性客を見て、彼女はかつてのセクハラ上司のことを思い出すなどのシーンがある。吉住にエールを送るセリフもあり、彼女は「THE W」の優勝者となった現実もあるので映画の世界と現実が繋がったような気持ちになる。
みつ子は次第に多田くんとの距離が深まっていくが、彼女の中にある不安やこれまでのことなどが爆発するようなシーンがあり、感情が不安定な人に見えなくもないのだが、人間が内面に抱えていることとしては共感できるし、そういうものを人は他人に見せていないだけなんだよなとも思う。能年玲奈の表情もいいし、感情のアップダウンも含めて、好きな映画だった。
また、このところ『細野晴臣と彼らの時代』を読んでいたのだけど、映画を見るまでYMOが散開して、元はっぴいえんどの面々が松本隆さんに呼び寄せられるように歌謡曲の世界で再結成したみたいなところまで読んでいた。映画を観たら、大滝詠一さんの『君は天然色』が主題歌になっていて劇中でも流れた。そして朝ドラ『あまちゃん』の能年玲奈橋本愛コンビが再び共演して笑っていたから、なんだかうれしくなってしまった。映画とは関係ないんだけど。

『2010s』と『シンセミア』

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ずっと発売がたのしみだった宇野維正&田中宗一郎著『2010s』が刊行された。宇野さんの著書としては同じく新潮社から刊行されている『1999年の宇多田ヒカル』と『くるりのこと』どちらも読んでいる。僕はロキノン子ではなかったので、今回の著者ふたりともロッキング・オンで編集者であり、その頃から追いかけている人たちのような熱い思いや憧れはない。

タナソーさんを意識したのは『snoozer』の人ということからだったし、宇野さんは先ほど書いた著者としてだった。『1999年の宇多田ヒカル』の編集者である、今回も担当編集者の金寿煥さんと知り合いだったので、読むきっかけになった。寿煥さんが樋口毅宏著『タモリ論』も担当されていて、僕は樋口さん同様に『水道橋博士のメルマ旬報』創刊時からの連載陣で当時は樋口さん宅と目と鼻の先というご近所だった。そういうこともあり、樋口さんの出演するイベントにも顔を出していて、そこで知り合いになったんだと思う。5年ほど前に青山ブックセンターで樋口さんが敬愛するロッキング・オンの編集者である山崎洋一郎さんとのトークイベントがあった。その時に打ち上げに一緒にいかせてもらった際に宇野さんや兵庫慎二さんや柴那典さんとはじめてお会いする機会があったように記憶している。もしかしたら、誰かは違う場所で会っているかもしれないけど、その三名は樋口さん繋がりなはず。

 

タナソーさんと初めて会ったのはちょうど10年前のGirlsのライブだった。このことは当時はてブに書いている。『2010s』でもGirlsのクリストファー・オウエンズがその頃一番シンパシーを感じるアーティストとしてテイラー・スウィストだと話していたことから、タナソーさんも熱心に彼女の曲を聴くようになったと書かれている。自分はまったくそっちにはいかなかったので10年代後半になってようやく聞き出した。そういう意味でも僕は『2010s』で書かれているポップ・カルチャーに起きたものはほぼリアルタイムではない。ちょっと遅れたりしながら、あるいは興味なかったりして名前だけ知っていたもの、ある程度周りがおもしろいという声があってから観たり聴いたりしたものがあって、この書籍はディスクガイドのように機能してくれた。

 

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第2章「ラップミュージックはどうして世界を制覇したか」読んで、ドナルド・グローヴァー主演『アトランタ』の舞台がなぜアトランタなのか、『ムーンライト』で主人公が大人になってから移り住んだのがアトランタなのかって意味をはじめて知った。なるほど。『アトランタ』はあのオフビートな感じで好きでシーズン2までを何度も繰り返して観てしまっている。シーズン2「略奪の季節」でのスピンアウトのような『テディ・パーキンス』で描かれたものは、黒人文化としてのヒップホップをメインにしたドラマであるが、あきらかにマイケル・ジャクソンのような存在を出しながら、アイロニーとやるせなさがあった。僕はその感情に深くコミットはできないけど、やろうとしていることはどこかわかる気がした。だからか、このエピソードがどうも自分の脳裏から離れない。

 

第五章で取り上げられている『MCU』シリーズも途中から観始めたので、初期の作品はほぼ観てない。調べたら僕が最初に観たのは2014年公開の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』からだった。しかも、その時は『MCU』シリーズというものに興味がわかなくて、その次に観るのは同じくフェーズ2の『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』でもなく、フェーズ3『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』でもなく、続編になる2017年公開の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』だった。僕にとって『MCU』シリーズは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』と関係するなにかであり、『アイアンマン』も『キャプテン・アメリカ』も『マイティ・ソー』も知っていても観たいという気持ちはどうしてだかなかった。それは単純にビジュアルが好きではなかったのかもしれなけど。

 

ここで書いているのを観ると友人に勧められてしぶしぶ観にいって最高じゃん!ってなっている。自分の意識が変わり出したのが2017年とかなんで遅いっちゃ遅い。

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』以降に公開された『スパイダーマン:ホームカミング』『ブラックパンサー』『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』『アントマン&ワスプ』『キャプテン・マーベル』『アベンジャーズ/エンドゲーム』『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』は劇場で観ている。しかし、ここでもスパイダーマンブラックパンサーに挟まれている『マイティ・ソー バトルロイヤル』だけ観ていない。だから、すごく『MCU』シリーズにどハマりしたとは言えないが、確かに作品として観て好きになっていった。リアルタイムで体験できる映画の祭りだったのも大きい、『スター・ウォーズ』シリーズにまったく乗れない人だったのもあるかもしれない。

 

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アトランタ』の主演でもあるドナルド・グローヴァーと『スパイダーマン:スパイダーバース』の関係についての箇所は読んでいてはじめて知った。有名なことかもしれないけど、おそらく『スパイダーバース』を単純にスパイダーマンの新作CGアニメーションとして楽しんだだけではその経緯や流れはわかっていないし、知っていない人が多かったはずだ。『This is Amerika』を歌ってる人があの作品に影響を及ぼしているとたいていの日本人の観客は知らなかったと思う。インターネットでググれは出てくるかもしれないことでも、その乖離は間違いなく起きていたんじゃないかな。そういうことも含めて10年代のポップ・カルチャー同士の連なりや影響をこうやってガイド的に、ふたりのそれぞれの主観的な視線や思想も含めて知っていくというのは非常に知的な興奮を覚えるし、世界のディテールがより複雑になるのに明細度が上がる感覚を覚えた。

 

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『2010s』を最後まで読了したのは日付が変わった今日。1945年の敗戦、アメリカの属国として復興と繁栄、そして没落し後進国になったことに目をそらし、耳を塞いできた十年代、その時ポップカルチャーではなにが起きていたのか?
ハイコンテクスト化していくポップカルチャーと文脈、インターネットとポピュリズム、分断と衝突、多層化する世界を行き来する人と取り残される人。
なんとなく興味をもって観たり聴いたり読んできたもののリンクと水面下でのクロスオーバー、ネイティブな英語圏ではないから取り残され、理解できていなかったバラバラのピースが完璧ではないが前よりも輪郭がわかるようになった。たぶん、これはあれと繋がるし、とかとか。
阿部和重作品における日米関係の描きかたとかもそれらを考える上でヒントになるし、最後のタナソーさんと宇野さんの話にも通じている。
最終的にはアメリカは中国とヨーロッパに屈するだろう、日本はアメリカに追随していく羽目になる可能性が高い。その過程でアメリカのジャパン州になって、天皇制も解体される日もあるかもしれない。天皇制という明文化された奴隷制度がある限り、日本では革命は起きないと思ってる。尊皇攘夷て結局、天皇家を人柱にした革命だったから、まずその次に革命を起こすなら彼らの解放からしかないように思える。
きっとポップカルチャーはそんな中でも未来に起きるなにかの種子から芽を出して、僕らに新しい時代を伝えてくる装置にもなる。
ちょっと経ったらもう一度再読してみよう。書かれた作品を観たり聴いたりしてから読み返すと違う景色もまた見れそうな気がする。

 

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『2010s』を読み終わる前に、仕事が終わってから季刊誌kotobaプレゼンツ「21世紀に書かれた百年の名著を読む」第4回 仲俣暁生×倉本さおり「阿部和重シンセミア』を読む」を聞きに荻窪の本屋titleに行った。駅からこんなに遠かったかなあ、と思いつつ歩くとお客さんわりといて、最終的には満席みたいな感じになってた。友人のパン生地くんなど顔見知りの方もチラホラ、一度トークイベントにいった時にご挨拶してた作家の鴻池留衣さんもいたりしてほぼ満席だった。

僕が『シンセミア』読んだのは仲俣さんと会って以降だから間違いなく2008年よりはあとになる。それまで伊坂幸太郎作品と一部の村上龍作品とレイモンド・カーヴァー作品ぐらいしか小説を読んでなかったのに、2008年から古川日出男作品と阿部和重作品読み出した。だから、「J文学」なんて単語があったことも知らなかったし、文芸誌もまったく読んでなかった。そもそも上京したのは脚本をやろうとしてたからで、目指すは野島伸司野沢尚、そして宮藤官九郎だった。純文学とか何にも知らなかったし、同世代の十代から小説を読んでた人たちみたいなインプットはほぼなかった。だから、阿部和重さんを含む「J文学」と呼ばれた作家たちもメフィスト賞作家陣もリアルタイムではなく、評価が決まったあとぐらいから読んでる。そういうのもあって僕は12年ぐらいしか小説を読んではない。

その中でも阿部和重古川日出男という二人から、村上龍村上春樹に、中上健次に、三島由紀夫に、大江健三郎にと遡ったりしながら読んだりしてる。興味持てたの阿部さんと古川さんの小説、そして大塚英志さんの書いてきたものによるので偏ってるんだと思う。

『文化系トークラジオ Life』界隈の人と知り合って付き合いができるようになったのも08年になるから、人文学ってものがあるんだな~て知ったのもその頃だし、批評とかも同じでそれまで意識してなかった。大塚英志関連書籍は買ってたけど、読んでも全然意味がわからなかったから途中で投げ出してたし。人文学系を読み出して、なんか聞いたことあるな、それ、みたいに繋がりだした。そういう中でなぜか古川さんと阿部さん作品は読んだらおもしろくて、どんどん伊坂幸太郎的なエンタメから純文学寄りに移行していった時期だった。

 

映像化されない阿部和重問題は、阿部和重さんと青山真治さんの関係はかなりデカいと思う。「北九州サーガ」とか青山さんは自分で撮りながらも小説として発表していた。阿部さんは日本映画学校出身だし、シネフィルとか含めても、撮るという視点は最初からあった。撮るという暴力性や加害者になりえてしまうということを、小説を書くときに批評的にも入れてるし、入れざるを得なかったはず。だけど、青山さんの小説にはそれがない。

今はセルフィーの時代なので自分自身が加害者であり被害者でもあるという恐ろしい時代みたいなことを菊地成孔さんが言ってた気がするけど、撮るってことの暴力性に対しての意識はこの10年でまったく違うものにはなっている。
青山さんは映画監督だから、その暴力性や加害者的なものは意図的にか、スライドするように排除しつつも、九州男子的な家父長性の中で物語が展開される。そして性暴力が描かれるが、被害者である女性は、それでも母性で彼らを包むというレイプファンタジーみたいな日本社会に根付いてる甘えはあったような気がしなくもない。阿部和重作品はそこにはいかないようにしてたのかなあ、と仲俣さんと倉本さんの話を聴きながら思ったりした。『サッドヴァケイション』でようやく母性に復讐されるというか飲み込まれてしまったような記憶があるが、ちょっと記憶があやふやだ。

 

阿部さんが自分で監督やらないとあの頃は基本的に映像化できなかっただろうし、映画愛があるから映像化させないハイコンテクストで多層的な側へ向かってた気もする。
神町」トリロジーと一連の派生作品を『スター・ウォーズ』サーガ的なものみたいなものとして最初はあったんだろう。だけど、阿部さんは『アベンジャーズ』シリーズの『エンドゲーム』観た後に『オーガ(ニ)ズム』を含むそれらを『阿部ンジャーズ』みたいな茶化したことをツイートしてた。
もう『スター・ウォーズ』みたいな懐古主義でやっていくには世界は分断されて多層化されてしまっている、そして、ハイコンテクストであり三部作×三ではなく、10年に渡って紆余曲折ありつつ、現実を作品に取り込むながらフェイズ3で23作品にまで拡張していった『アベンジャーズ』シリーズみたいな戦い方しかないって思ったんだろう。
阿部さん自身が『キャプテン・サンダーボルト』で伊坂幸太郎さんと組んだことは明らかに『オーガ(ニ)ズム』に影響されているし、伊坂さんはサーガではないけど、キャラクターである黒澤が到る作品に現れることで世界観を共有しているような、ゆるやかな連帯や世界観のほうに舵を切ろうとしてるのかもなしれない。

 

シンセミア』では町が洪水にのまれるというか、あれが311を予見してたみたいに思えたし、言われてたけど、ポン・ジュノ監督『パラサイト』で起きるあれ観たときに僕は『シンセミア』浮かんだ。『パラサイト』のあれは格差社会のメタファだけど、ビリー・アイリッシュとか今多くの人が歌ってる人類の一番の問題である気候変動がもたらす人類への無慈悲な鉄槌でもある。阿部さんが『パラサイト』を観た感想がかなり絶賛だったけど、あんたのほうがすげえからね、ほんと。そういうものもこれから自身の作品の中に取り込んでいくんじゃなかな。

あと海外に翻訳という意味ではほんとされてないんじゃないかなあ、聞かないし。
仲俣さんがミシェル・ウエルベック阿部和重リチャード・パワーズ古川日出男がどんどん近づいてるみたいな話をされてたけど、そういう感じなら出ていけるんじゃないかな。古川さんは何ヵ国か訳されてる。今だと日本文学は村上春樹のあとは川上未映子村田沙耶香みたいになりそうな雰囲気あるけど、阿部和重だろ、まずは。そうならないのは単純に出版社とか今エージェントしてる人たちがそういう想像力がなかったり、実行力がないだけなんじゃないかな、やろうしてるのかもだけど。
あとは阿部さんを学生時代から読んでいたような40代前半から僕らぐらいの人間が超氷河期時代の犠牲にならずにある程度の数が出版社に入ってたら、そういう動きをやっていくような動きは少なからずあったんじゃないかなっていうifもしもの可能性も考えたりした。

 

『2010s』でタナソーさんがいっときトマス・ピンチョン作品を集中して読んでいたという話があった。僕はまだ数冊しか読んでいないけど、ピンチョンの長大で難解な小説はあらゆるものがぶちこまれている。テレビや映画や音楽やドラッグや歴史すべてが混ざり合ったポストモダン文学とされる。ハイコンテクストすぎるわけだが、ちょっと小説を読み始めたってぐらいの人では読めない、あらゆるカルチャーにも視野や興味がないと何が書かれているのかわからない。そういう意味でもハイコンテクストになって分断され、多層化したポップ・カルチャーについて書いたタナソーさんがピンチョンを熱心に読んでいたというのは繋がっているはずだ。2020年ぐらいになった時に『2010s』を再読する時にどんなことを思うのか、時代やポップ・カルチャーが変化したのか改めて感じることになるんだろう。

 

『つつんで、ひらいて』

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装幀家菊地信義を追った記録映画『つつんで、ひらいて』をイメージフォーラムにて。広瀬奈々子監督は今年デビュー作『夜明け』を今年アップリンクで観ていた監督さんだった。


紙の本、デザインと物質、意識と身体性、僕が今考えたり関心があることが映し出されていた。
言葉はものだから、声にしたり文字にしたり、した瞬間こぼれおちていく。だからこそ、器は必要になる。

すべてが溶け合う境界線が奪われた場所は行き来自由だけど、他者性が損なわれてしまう、他者がいなくなる世界では当然ながら自分が失われていく。
しかし、資源は限りがあるから本というスタイルは少なくなっていくけど、紙の本はハードウェアとソフトウェア療法を兼ねていて電源もいらないし、充電の必要もない。


インターネット的な思考やシェアみたいことを言っている人たちの言葉はなんだかんだ言っても紙の本として売って届けている。彼らはウェブの可能性がわかっていて、同時に不可能性もわかってるから本で届けようとしてる。


所詮、人はやがていなくなるのに形あるものを欲し続けて、死んで跡形もなくなる。精神と身体性、肉体は心臓停止から腐り始めて放置されれば鳥に啄まれて、獣に食まれて、菌類に分解されていく。骨は残るとして内に秘められていた心はどこに向かうのか、蒸発するようにただ消えるのか。
言葉による思考、思考や物語の断片は言葉によって表されていくのに、どんどん意識とズレて落ちていく、なんとか叩きつけて刻みつけて言葉から引きずり落とされないように、足掻いてもがくから息も絶え絶えになるとこまで行かないといけない。


かつては石に刻み、紙に著し、ウェブには漂う。人の身体性がなくなる世界ならば、問題はないのだろう。それはもはや人ではないホモ・デジタリアンとか、違うヒト科の亜種だから。
自分にとっていい装幀の本は、呼ばれてるのがわかる、だから手に取る。装幀家が著者への扉を僕に開いてるから。