Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『ア・ゴースト・ストーリー』


シネクイントで『ア・ゴースト・ストーリー』初日の上映を観る。
ゴーストは基本的には「過去」であり、そのメタファ。突如交通事故に遭い死んでしまった男はゴーストとして恋人と住んでいた家に帰ってくる。そして、彼女の側にいる。ここまではありふれたゴースト・ストーリー。
大切な人が死んでしまっていなくなった現実を受け入れるまでの期間を喪に伏す時間とも言えるけど、それは実際のところ人それぞれ違う。現在を生きているものはやがてそれを経て違う未来を歩き出す。しかし、この話は喪に伏される側のゴーストの大切だった場所と時間を巡る構造になり、場所や時間すらも越えて、やがて死んでしまった側の彼=ゴーストが知りたかったものを見つけるまでの『ア・ゴースト・ストーリー』になっていた。肉体を失い意識だけが残された者がその意識を失うための。
だから、とてもわかりやすい20世紀的な映像の想像力で作られてもいる。わたしたちが理解しやすい時間と空間を用いて。これに更なる次元を加えて物語るとクリストファー・ノーラン監督『インターステラー』になる。

『ボヘミアン・ラプソディ』『モダンライフ・イズ・ラビッシュ』


 TOHOシネマズ新宿にてドルビーアトモスで『ボヘミアン・ラプソディ』を鑑賞。やはり予告編で観ていた時からこの作品を観るときには大画面でできるだけ音量のいい劇場で観ようと思っていたので、ここで正解だった。
 フレディ・マーキュリーがスターになって大衆を沸かすに沸かす最後のライブエイドまで。彼の人生とバンドメンバー、妻だった彼女、やがて自分のセクシャルに気づき最後を共にすることになるパートナーとの出会い。彼の人生が、鳴らした素晴らしい音楽を、いや、彼らが鳴らした音楽が時代を超えても届くことがわかる。最後の20分のライブエイドでのライブを完全再現したシーンは鳥肌と涙が止まらない。観るなら大画面で大音量で、家やPCやスマホで観る映画なんかじゃない。


 新宿から渋谷で、なんとか30分以内でヒューマントラスト渋谷に。『モダンライフ・イズ・ラビッシュ』鑑賞。こちらも10人とかそのぐらいか。
 ブラーにリバティーンズレディオヘッドにUKロック盛りだくさんで、ニルヴァーナスマパンソニックユースストロークスたちUSロック勢は出てこないっていうロックミュージシャンの物語ではあるけど、ラブストーリーでした。僕の十代、二十代に聴いてた曲、レディオヘッド貶されたら萎えるよっていうね、あれすごくわかる。今日はイギリス舞台にした音楽映画祭りでした。

『生きてるだけで、愛。』


 公開初日に、渋谷のヒューマックスシネマで仕事帰りに鑑賞。10人ぐらいのお客さんだったような気がする。小説自体はだいぶ前に読んでいるが、鬱になっている主人公(趣里)と彼女の彼氏(菅田将暉)、彼女のわがままに見える、不器用さやどうしようもなさ、人の優しさが染み込んでくると壊してしまいたくなるのは、自己肯定力のなさやそれに応えることがきっとしんどくなってくるからなのだろう。だが、一緒にいる彼氏、いや恋人や同居人だったら耐えれないとも思う。彼もまたゆっくりと溜まっていたものを最後には爆発させる。彼女の最後の疾走と踊りのような行動は憂鬱の鬱から抜け出す儀式だった。しかし、彼女の行動に胸糞が悪くなるところもある。きっと、今の所自分だったら迷惑をかける側だからだ。しかし、いつ自分が鬱になってしまうかは誰にもわからない。ただ、このメンヘラ的な自意識の問題は本谷有希子さんが演劇で世に出て、小説を書いていくことになるゼロ年代的なものでもあり、いまでもこのことに苦しんだりしている人が多いのも知っている。だが、どこか見慣れてしまった光景でもあるように思えてしまう。もっともっと早く映像化していた方が突き刺さり方は違ったのかもしれない、とは思う。
 本谷有希子原作『生きているだけで、愛。』と山戸結希監督『おとぎ話みたい』の映画の主演が共に趣里が主演で、どちらも劇場で観たが、山戸監督の呪いですらある作品に出てた印象には勝てない。というのが観た印象だ。