Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『BEAUTIFUL WATER』



電車に乗って埼玉県の鶴瀬駅に。駅から歩いて30分ほどのところにあるキラリふじみに行く。快快のコージが出演するというので観に行った。前にも彼はここでの三ヶ国の演者や演出家が組んだ舞台に出ており、その時に観にきていたので歩きながら、デジャブ感をちょっと感じていた。
『BEAUTIFUL WATER』は空間の真ん中に巨大なコンテナが置かれており、それを囲むように椅子が置かれている。観る人は勝手に立って位置を移動して観てもいいと最初からアナウンスされている。巨大なコンテナによって反対側は観ることができない。コンテナからはどんどんゴミ袋が落とされ、魚に扮した演者達がゴミをバラまいていくのだが。
インドネシア、マレーシア、日本、三ヶ国を巡っていく。そこにあるのは違う言語、文化、でも、海で繋がっている。地球環境や自然、災害はどこでも起きているし、危機はすぐそこにあり、同時に現在進行形のものとしてある。
舞台が進んでいくと視点が嫌でも動かされてしまう。物語の展開上、客はずっと同じ場所にいれないからだ。舞台というステージだけを観ることはなく、フラットに変わり続けていたし、客はそこに巻き込まれて少しではあるが当事者性を持たされてしまう。それがおもしろかったし、意図的に演出されていることだったと思う。
言語による思考、身体性はあるはずで、それが三か国の役者で混ざることで、見たいもの、聞きたいもの、わからないものが溶け合うのがとても現代的というか、スクランブル交差点で目を閉じたら何ヵ国もの言語が行き来しているのに近い。わからないものがあるけど、それは言語だということわかる。いくつかの文化が混ざり合うことで、露わになってしまう自身の輪郭、他者はそこにいる。同時に自分も他者にとっては他者なのだ。言葉によって身体によってコミュニケーションを取る、通じること通じないこと。今、僕が気になってる事柄が表現されていた。
閉じるな、他者との違いを認めながら多様性があることに気づく。だが、現在の世界では民主主義が死んでいくように、国のトップがそれを認めようとはしない。差別主義者やヘイトが平気で垂れ流されるのは、彼らにとってそれが邪魔になるからだ。資本主義の行き着く先は共産主義的でも、既得権益はそれを手放すことも恵まれない人にわけることもなく、彼らは彼らの利益を守るために多様性を認めることはない。労働者の怒りが向かう先はいつだって彼らではなく、彼らによって提示された、ラベリングされた弱者や敵認定された者たちだ。なるほど、どうやら世界は驚くほど人間の存在としての価値よりも経済的なものの価値で判断するようになってしまったということだ、いやずっとそうだったがインターネットによって驚くほどに加速してしまった。しかし、どうだろう。もっと自由にボーダーレスに動き続ける人たちにはそれは関係ないはずだ。同時にそうはなれない人たちが差別主義者のようになっていく。
海で繋がっている地球、人間の体内を満たす水。水をどんな器に入れるのか、入れないのか。そこにあるのか、ないのか。変幻自在なもの。
おそらくいろんな国や場所や地域で、このような問題意識を持った表現は同時多発的に生まれているはずだ。その人がなにを信じたいのかということが、これからどんどん露骨になっていく時代になっていくんだろう。
http://www.kirari-fujimi.com/program/view/555

『愛と酒場と音楽と』



仕事終わりに、映画の日なので『きみの鳥はうたえる』二回目を観て、そのまま続けてユーロスペースで『愛と酒場と音楽と』を。三作品それぞれタイプの違うオムニバス作品。
一作品目はセリフがほぼなく、裸の人間の髪を切るところから意外な感じになるのだが、すげえシンプル。
二作品目はワンシチュエーションもので、登場人物がかなり癖のある話し方をする。みんなが同じようなスピードで話すので、流れていくけどセリフは残りづらい。間とテンポ、対比になるような人物がいたほうがもっといいのだろうということを終わった後にご挨拶した海老澤さんに伝えた。
三作品目はメルマ旬報執筆陣の小川紗良さんが監督主演しているもの。こちらはムーラボ作品だったので、音楽が主体でラップのリズムとMVのように映像を編集しているので観やすい、頑固な父親とのやりとりなど、大まかに省力したかカットしているのだと思う。イワシ屋の息子の高校生の男の子が『リリイ・シュシュのすべて』の頃の市川隼人っぽかった。

『search』試写


 『search』試写。ソニーピクチャーは事前に予約制、初めて来た。
「予告編妄想かわら版」の公開週の月曜に出る 連載にも書いたけど、映画のすべてのシーンがPCとスマホなどの画面で構成されていて、行方不明になった娘を探す父は、PCとスマホを使い、娘のSNSにもログインして交遊関係を調べていく。ネット、SNS時代の安楽椅子探偵ものとして見ることができる。
 これが日本だと『スマホを落としただけなのに』になってしまう。いいか悪いかは別として。たぶん、このやり方はいろんな国で模倣されるだろうが、これがアメリカでヒットしている以上、二番煎じになる。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』からモキュメンタリーブームが来たみたいなことになるかなあ。

 若者のTwitterFacebook離れも言われるが、リアリティーのあるものだとは思う。十代二十代の子供がいる親世代のほうが突き刺さるかも。子供たちはこんなことをして繋がりがあるのか、とか。
Facebookによく投稿してる人とかはそうだよね、と納得しながら話に引き込まれていく可能性も高いかなあ。公開したらヒットするとは思う。
 なにもかもデータで残せるということは辿れば隠されたものも暴けるかもしれない。それを古書をメインにしたのが『ビブリア古書堂』かもしれない。違うか。

 これも前に試写で観た『クワイエット・プレイス』もある種のワンアイデアアメリカでヒットしてる。日本だと『カメラを止めるな!』がそれになる。もう、マーケティングして映画にしろなにか作品を作っても佳作か秀作程度しかならない。
 低予算だからいいんじゃない。作った人には金が入らないシステムはとりあえずクソだ、それは間違いなく。作る人が情念とかどうにもならない気持ちがあるもの、結局個人的なものにたどり着くんじゃないか、それをサポートする体制がオンラインなりクラファンできれば。ただ、みんなで作ることで無理な部分があるし、出てくる。

 インターネットで繋がりが簡単になると個人の概念みたいなものが簡単に浮き彫りになる、近代化する時に「私」という概念が入ってきたように、あれは個人をキャラクター化するものだった。そのキャラクターは傷つくし当然死ぬし、気持ちもある。
 キャラクター文芸とかいうけど、そもそも近代小説が自然主義を巻き込んでキャラクター小説だった。アトムの命題のらくろというキャラクターが体現してる。その辺りのことは田河水泡と現在をつないで書いたら批評的な小説になるはず。