Spiral Fiction Note’s diary

物書き&Webサイト編集スタッフ。

『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』


 アップリンクにて20時の回で『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』を鑑賞。原作である漫画は読んでいない。出てくる役者さんもほぼ知らなかった。タイトルが気になったというのが一番かもしれない。ある時期からラノベとかでタイトルが異様に長いものが主流になってきた流れもあるのかないのか。検索する時に他が引っかからないという話もある。

漫画家・押見修造が実体験をもとに描いた同名コミックを、「幼な子われらに生まれ」の南沙良と「三度目の殺人」の蒔田彩珠のダブル主演で実写映画化した青春ドラマ。上手く言葉を話せないために周囲となじめずにいた高校1年生の大島志乃は、同級生の岡崎加代と校舎裏で出会ったことをきっかけに、彼女と一緒に過ごすように。コンプレックスから周囲と距離を置き卑屈になっていた志乃だが、加代にバンドを組もうと誘われて少しずつ変わっていく。やがて、志乃をからかった同級生の男子・菊地が強引にバンドに加入することになり……。林海象監督や押井守監督のもとで助監督を務めてきた湯浅弘章監督が長編商業映画デビューを果たし、「百円の恋」の足立紳が脚本を手がけた。(映画.comより)

 人前だとうまく言葉を話せない、吃音と言える志乃とミュージシャンになりたいが音痴な加代との交流によって少しずつ心を開いていく。しかし、その居心地のよかった二人だけの関係にクラスでも浮いている男子生徒の菊地が関わるようになってくることで、再び心を閉ざしてしまう。
 志乃と加代が深夜から早朝に至るまでの間、車がまったく通らないバス停で待っている姿はアメリカ映画『ゴーストワールド』を彷彿させる。また、女子高生二人組がメインの物語という意味では枝監督『少女邂逅』と共にこの2018年を代表するようなガールズムービーであり、思春期の繊細すぎる気持ちを描いている作品として同時代の十代やこれから十代になる人たちの心に寄り添えるような作品になるのかもしれない。
 志乃を演じた南沙良は吃音でうまく話せないという役柄だったが、すごく難しかったのではないかと思う。志乃ちゃんは声に出そうとすると言葉にならない音がいくつも漏れて、ようやく言葉になんとかなったり通じるので、その時間は長く感じる。対する加代や菊地はその間待っている。その間は、志乃とってはもどかしく、伝えたいけど伝えられない時間でもあり余計に焦りを生んでしまう。対する相手も普段なら向き合えるがなにか感情に波があったり彼女との関係がほころび始めるとその時間はやはり苛立ってしまう。
 話せないというのはコミュニケーションがうまく成り立たないということだ。しかし、菊地のような明るいが場を乱し次第にクラスの誰かも無視されたり煙たがられるようになる人もいる。話せるからと言っても、相手のことを考える、空気やその温度を感じながら伝えないとそれは伝わらない。この作品では気持ちをどう言語化するかという部分が主題であり、言葉にして伝えることの困難さを吃音の志乃ちゃんに託している。加代が起こした行動を受けて、志乃ちゃんは心情を吐露する。その時、その困難さは一度クリアになるが、ラストでの三人それぞれの関係を思わすシーンは救いがないように見えなくもないが、とてもリアルだった。そういうものなのだ。
 『少女邂逅』のラストシーンのようにひとりの少女が繭をやぶり次の段階に移行する時に、その相手との関係やその存在はそうならざるをえないと思う。『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』のラストでの志乃と加代の距離もそういう風に感じられた。

『愛しのアイリーン』


 シネクイントで13時の回を鑑賞。三連休の中日であり渋谷は祭りの只中、どちらかというと観る人を選びそうな内容ではある。こういう作品は若い人が本当は観た方がいいし、観てほしいと作り手も思っているのだろうけど。

「ワールド・イズ・マイン」「宮本から君へ」など社会の不条理をえぐる作品で知られる新井英樹が、国際結婚した主人公を通して地方の農村が内包する問題を描いた同名漫画を実写映画化。新井の漫画が映画化されるのはこれが初めてで、安田顕が主演、「ヒメアノ〜ル」の吉田恵輔監督がメガホンを取った。42歳まで恋愛を知らず独身でいた岩男が、久しぶりに寒村にある実家に帰省する。しかし、実家では死んだことすら知らなかった父親の葬式の真っ最中だった。そんなタイミングで帰ってきた岩男がフィリピン人の嫁アイリーンを連れていったため、参列者がざわつき出し、その背後からライフルを構えた喪服姿の母親ツルが現れる。安田が主人公の岩男を演じ、アイリーン役にはフィリピン人女優のナッツ・シトイを起用。そのほか木野花伊勢谷友介らが出演。(映画.comより)

 吉田恵輔監督ならば間違いはないだろうという安心感はある。目を背けたくなるような描写やシーンはあるだろう、人間の性を描いてしまうだろう、そこにはごちゃごちゃになってしまう人間の欲望や衝動や哀しさや尊さが混ざり合ってしまっている。どこを照射してもそれだけではなく、ほかのものが混ざりこんでいる。
 日本とアジアとの関係、資本主義と差別、地方社会の閉じた社会、性欲と血族、現在の日本にある問題がてんこ盛りのようにこの作品の中に入り込んでいる。

 象徴としてアイリーンの存在がある。母と息子としての関係性、姑と嫁の関係性も彼女によって母の暴力性が際立つ。途中でアイリーンが坊さんと話す中で出てくる姥捨山というワード、思いの外最後に聞いてくる。
 アイリーンが登場するまで岩男が気になっていたパチンコ屋の同僚の愛子の名前にも「あい」が含まれる。「おまんこ」させろと後半多発して言うことになる岩男だが、この性衝動はこの二人に大きく向けられる。セックスによる欲望の解放と律動がこの物語に大きく寄与している。どうしようもならないものが理性を越える時、抑えきれない時に起こるのはどうしても悲劇だ。

 その悲劇は今の都市部よりも地方都市でより如実に表れているのだろう。後継者問題と過疎化、子供の嫁と婿問題、都会にいるから人がたくさんいて結婚できるわけではないが田舎にいるよりはその問題は先延ばしにできるが、田舎では親世代の高齢化や住居の問題、病院に行くのでも車に乗れるのは誰かという生存に関する問題がそこに直結する。

 シリアスなシーンでは逆に笑いが起こってしまう。この映画は笑えるけど笑えない。誰もが抱えている問題を目の前のスクリーンに二時間半近く流し続けるのだから。間違いなく素晴らしい映画だと思う。どうしようもない気持ちや欲望のいく先にあるもの、信じたいものと信じられないもの、気持ちと金についての相関関係、観ているとどんどん気持ちがザワザワしてしまう。ああ、アイリーンも岩男も、それに母親のツルも自分の中にいるようにしか思えなくなる。

 今年の自分が観た映画でベスト上位に入るのは間違いない。

『響 -HIBIKI- 』


 仕事終わりにTOHOシネマズ渋谷にて『響 -HIBIKI- 』を18時半の回を鑑賞。「欅坂46」の平手友梨奈主演ということもあり、高校生ぐらいのお客さんもかなりいたと思う。

これが映画初出演となる「欅坂46」の平手友梨奈主演で、文芸の世界を舞台に15歳の天才女子高生小説家を主人公にした柳本光晴の人気漫画「響 小説家になる方法」を映画化。出版不況が叫ばれる文芸界。文芸雑誌「木蓮」編集部に一編の新人賞応募作が届く。応募要項を一切無視した作品のため、破棄されるはずだったその作品に編集者の花井ふみが目を留めたことから、状況は大きくは変わり始める。「お伽の庭」と題されたその小説は、15歳の女子高生・鮎喰響によって書かれたものだった。主人公の響役を平手、編集者の花井役を北川景子、響が所属する文芸部の部長で、響の圧倒的な才能との差に苦しむ女子高生・祖父江凛夏役を、8年ぶりの実写映画出演となる「パコと魔法の絵本」のアヤカ・ウィルソンがそれぞれ演じる。そのほかの共演に高嶋政伸柳楽優弥ら。監督は「となりの怪物くん」「センセイ君主」の月川翔。(映画.comより)

 響のキャラクターは確かに魅力的であり、世の中には天才という者が確かにいる。そして、一人の天才によってそれまでのルールや世界は一変してしまう。例えば、将棋で言えば羽生善治という天才の出現によって奨励会で昔ならプロ棋士になれた人たちが夢叶わずに奨励会を退会したり夢を諦めたというのは大崎善生さんのノンフィクションを読むとわかる。今までの戦い方を変えてしまう天才が現れた時、新しい時代の天才と戦うための戦略と知性が必要になるからだ。
 国民的な小説家である祖父江(モデルは村上春樹しかいないだろう)を父に持つサラブレッドの凛夏はアヤカ・ウィルソンが演じているが、父が天才的な才能で国民的な存在である場合、彼女が秀才では天才にはなれない、しかし、ネームバリューは当然ながら出版社に利用されるし、利用しようと思えばできる。彼女は響のライバルのように見えるがライバルではない。
 小説家のリアリティーを感じるのは、かつて芥川賞を受賞し天才作家だった北村有起哉演じる作家だった。モデルは幾人か浮かぶ、芥川賞を取るまでは有名になるまでは天才的で時代の寵児のようでもあった作家たちがそうではなくなっていく、それでも彼らは書き続けるその理由は彼が語る部分も当然あるが、それだけではない、それだけでは書くことを続けられるわけがない。

 十五歳最年少の芥川賞直木賞候補という展開が、凛花も単行本デビューするわけで女子高生作家というのはやはり綿矢りさ金原ひとみの同時受賞を思い起こさせる。若くてもすごい書き手はいるけど、それを持て囃して彼や彼女を潰すことだってもちろんある。出版社の編集者が守れるかと言えば、守れない。サラリーマンである彼や彼女たちは一人の作家だけを担当しているわけではない、時代を変えるような天才作家ならまだしも、そうではない作家に対してそこまで労力を使えない現実はある。好き嫌いとかあるにしても、一人の編集者が年間に作る本が多くなればなるほどに、一人の作家と向き合う時間など多くならない。どうしても売れている作家というプライオリティが自然に発生してしまう。

 凛花芥川賞候補になるまで絶好という話を響にする。それぞれの作品が評価されるという件だが、芥川賞直木賞文藝春秋がやっている賞でしかなく、この賞を受賞したからといってその期間の日本の小説のトップということではない。そもそも本を売るためのフェアの一環なのだから、本当にすごい作品も受賞するけど、いろんな思惑や文壇的な力がゼロなわけじゃない。そもそも素晴らしい小説を選ぶというのは人間の感性がみんなバラバラなので、一番難しい問題だ。どこをメインにその作品を評価するかということがデカい。

 響は十五歳の女子高校生だ。響が十五歳の男子高校生だったら、おそらく蹴飛ばしたりパイプ椅子で殴ったら即刻終わるだろう。あと北川景子みたいな美人な編集者なんか....。